2015年3月15日日曜日

ウ号作戦の開始


38日の第1533師団に続いて31515師団及び31師団はチンドウィン河を渡り其々15師団はインパール方面31師団はコヒマ方面へと進撃を開始した。

「この作戦が如何に無謀なものか、場所を内地に置き換えて見ると良く理解できる。インパ-ルを岐阜と仮定した場合、コヒマは金沢に該当する。第31師団は軽井沢付近から、浅間山(2542m)、長野、鹿島槍岳(長野の西40km2890m)、高山を経て金沢へ、第15師団は甲府付近から日本アルプスの一番高いところ(槍ケ岳3180m・駒ヶ岳2966m)を通って岐阜へ向かうことになる。第33師団は小田原付近から前進する距離に相当する。兵は30kg - 60kgの重装備で日本アルプスを越え、途中山頂で戦闘を交えながら岐阜に向かうものと思えば想像は付く。後方の兵站基地はインドウ(イラワジ河上流)、ウントウ、イェウ(ウントウの南130km)は宇都宮に、作戦を指導する軍司令部の所在地メイミョウは仙台に相当する」。

このように移動手段がもっぱら徒歩だった日本軍にとって、戦場に赴くまでが既に苦闘そのものであり、牛馬がこの峻厳な山地を越えられないことは明白だった。まして雨季になれば、豪雨が泥水となって斜面を洗う山地は進む事も退く事もできなくなり、河は増水して通行を遮断することになる。
ウィキぺディア


戦後双方の作戦計画を読んでみると、無謀とは言えない部分もある、牟田口司令官が無謀だったと言う意見は戦後大半であるが、私はそうは思わない、英軍特殊部隊チンデット部隊が出来たことを日本軍にできない事は無かったはずだ、制空権の問題で制空権さえあれば問題は無かったはずだ、しかしその制空権は無かった。
作戦立案をした参謀の問題でもある、そして牟田口司令官は戦後切腹して責任を取ればよかったものを、のうのうと生き永らえたと言うのが大問題だったのだ。

忘れまじ
異國に散りし
戦友偲ぶ
面影若く
われ老けにけり

歩兵第五十六連隊
昭和16年12月、大東亜戦争開戦とともにマレー侵攻作戦に参加(コタバルに上陸)。
シンガポール攻略戦ではブキテマ高地、シンガポール島西方要塞攻撃を担当。
シンガポール陥落後は、反転してビルマに向かう。
マンダレーを経てメイミョウに至り、メイミョウの防衛に当る。
昭和18年10月からウ号作戦、九号作戦に参加し、北部ビルマ各地を転戦。
昭和19年6月、第一次断作戦に参加。
昭和20年、メイクテーラー会戦に参加し、甚大な損害を受ける。
メイクテーラー会戦後は、後退してシッタン方面の防衛に当りながら戦闘に参加。
ニャンカン附近を防衛中に終戦を迎える。

2015年3月8日日曜日

チンドウイン河を越えて


昭和19年3月8日 第33師団はチンドウイン河を越えた。第15、第31師団は3月15日に続き、各数縦隊に分かれてインパールに向けて進撃を開始した。日本軍兵力4万8900人、輸送部隊3万6000人の大作戦です。 日本軍の牟田口中将の作戦は次の通りでした。
(1)第31師団は、インパールの北100キロのコヒマに進撃する
(2)第15師団は、東北方面からインパールに進撃する 
(3)第33師団の山本支隊は、パレルからインパールに進撃する
(4)第33師団主力は、トンザンを経て南西からインパールに進す る 
(5)第44師団・第45師団は、アキャブ攻撃の陽動作戦にチッタゴンを目標とする 
(6)ボースのインド国民軍は、第33師団主力の南にあるチン高地のハカ・ファラム地区の守備につき、その側面を援助する。第44師団・第45師団の陽動作戦に呼応してチッタゴン方面に進撃する 
(7)山中の移動のため、重砲や野砲を持たず、山砲や重機関銃も規定の半数とし、3週間でインパールを攻略するため、食糧は20日分とする。

インパール作戦準備命令

インパール作戦の起案
 南方総軍司令部では、ビルマ・インド国境方面の敵は弱く防衛も手薄であり、この機に乗じて東部インドを占領する計画を立てた。この作戦を二十一号作戦として8月6日に決定し、大本営の同意許可を得た。
南方総軍は9月1日第15軍に二十一号作戦の準備を命令した。

この時牟田口将軍は「国境の山地には道が無く後方からの補給が続かなくなり、大兵団を動かせないので作戦の実施は困難」とインド進攻作戦に反対であった。 桜井省三中将はさらに強く反対であった。

しかしなぜ牟田口中将が作戦遂行に傾いていったのか、それは182月英軍ウィンゲート准将率いる、所謂チンデット部隊がチンドウィン河を渡り北ビルマに浸入した。これに33師団は交戦し、かなり戦死者を出した。
敵は、飛行機から補給を受け北部のミッチナ付近の鉄道道路を破壊しつつ、イラワジ河を渡り中央部まで現れた。チンデット部隊は約3000人の部隊で日本の防衛体制の破壊と奪回作戦の偵察が目的で4月になると分散し反転し国境を越えて去った。

これに牟田口将軍は、チンデット部隊の行動に刺激され、ビルマ北部国境は通れるのに通れないと判断して、作戦に反対した自分を恥じた、又二十一号作戦は大本営発令ではなく南方総軍の立案だと本人は思っていたが、実は大本営の立案と言う事を知りさらに本人は恥じた、そしてこの時、緬甸方面軍が新設され、飯田中将がビルマ方面軍司令官に転出され、15軍司令官に牟田口中将が新たに転出された。


ウ号作戦準備命令
 昭和18年8月7日大本営から総軍にインパール作戦の準備を伝えてきた。順に総軍はビルマ方面軍にそして、第15軍に命令された。
8月12日には第15軍久野村参謀長を方面軍に呼びインパール作戦の方面軍の考えを説明し、第15軍としては了解し、完全に一致した。


この時牟田口中将以外、各師団長及び参謀は無謀すぎると作戦にはのる気ではなかった。


2015年3月4日水曜日

ワンマーカブチャー (万仏節) Makha Bucha Day


 タイの朝は僧たちの托鉢によって始まる。愉楽に騒ぐ熱帯の夜の名残りと、新たな一日の光が生起する豊饒への胎動との境目に、密かに目と祈りが流れ出る。合掌した手の熱い思いから、あたかも一瞬一瞬紡ぎ出される奇跡のように、生きとし生けるものの時間が動き始める。 裸足の僧と、裸足で食物を捧げる叙の、大地を通した交歓のなかに、洗われる心が光る。「サバーイ チャイ」という内面の輝きの美しさを、タイの人々は生れながらに具備している。祈りの溶け合うそこに、タイの朝がある。 タイ人は朝托鉢に来る僧侶に食物を捧げる。また、誕生日には早朝から寺へ行って捧げ物をする。これらも、幼少の頃から一つの習慣として受け入れられていくものである。「徳を積む」ことを社会と人生の価値観として学んでいく。「ナーム チャイ」(水の心=怦、)とか、「サバーイ チャイ」(心がすっきりする)とか、精神の清らかさやさわやかさを表す言葉が、日常のなかに息づいている

ワンマーカブチャー (万仏節) 陰暦3月の満月の日に釈迦がウェールワン寺院を訪れた際、悟りの境地に達した1,250人の弟子が偶然一堂に会したという奇跡的な出来事を祝う日で、人々は寺で説法を聞き、手にロウソクを持って本堂や仏道を3巡します。