2012年6月29日金曜日

大使館からのお知らせ


タイに渡航を予定されている皆様へ
                        (2012年6月27日)

例年、夏季休暇シーズンに数多くの邦人の方がタイに観光などで渡航されておりますが、残念ながら、犯罪やトラブルに遭遇する方々が散見されております。せっかくの貴重な海外体験を楽しく豊かな思い出とするためには、安全面の対策などがますます重要となります。当館と致しましても、皆様の当地での滞在をよりよい思い出として頂くとの意味から、当地滞在にあたっての留意点及び最近よく起きている犯罪被害や各種トラブルに関する事例を以下のとおりお知らせしますので、当地での滞在にあたり参考としていただければと思います。
なお、当館ホーム・ページ上の「タイでの安全のしおり」(平成23年度版)においても、タイにおいて事件や事故に巻き込まれないために留意すべき事項などをまとめておりますので、こちらも参考にしてください。        

1.旅券の管理について
(1)旅券を紛失した又は盗難された場合には、当館において申請に基づき「旅券」又は「帰国のための渡航書」(以下旅券等)を発給することとなりますが、旅券等の交付後にはタイ入国管理局においてタイ入国印の転記手続を要します。
(2)特に帰国便が差し迫っている場合にはタイ入国管理局における手続の関係で予定どおり帰国することができなくなることがあり、フライト便の変更及びホテル延泊などで、予期せぬ経済的負担を強いられる状況にもなりかねませんので、旅券の管理など十分に注意してください。

2.海外旅行傷害保険について
(1)トラブル防止のためにいくら注意を払っても、事故や事件に巻き込まれないとは限りません。また、海外では日本と違う環境でのストレスや疲労により、思いがけない病気にかかる可能性もあります。
(2)特に海外で入院・手術などが必要となった場合には、医療費は非常に高額となる事例が多いので、そのような事態に備え海外旅行傷害保険に加入することをおすすめします。

3.たばこの不法持込みによる摘発
(1)タイ物品税局では、たばこの不法所持、不法持込みについての摘発を強化しており、違反者に対して高額な罰金(20115月現在1カートン当たり4,675バーツ。日本円で約12300円。)を科しています。
(2)実際に、不注意に1カートンを超える免税タバコを持ち込もうとして、税関検査で摘発され、全てのたばこの没収及び高額な罰金を支払わざるを得ない事例が多発しています。免税たばこの持込みは、1人につき1カートンまでとなっていますので、一人の人がまとめて購入したり、所持したりしないよう十分注意が必要です。税関検査を受ける前に持込み制限を越えるカートン分は必ず放棄してください。スワンナプーム空港の税関のカウンター前に回収ボックスが設置されております。

4.自称シンガポール人又は韓国人女性による詐欺事案
(1)場 所:スクンビット地区、シーロム地区、カオサン通り
(2)手 口:盗難被害に遭ったと英語で話し掛け、同情を買い、お金を騙
し盗る手口です。なお、詳細については、1月19日付の当館発のお知らせをご参照下さい。万が一被害などにあった場合には最寄りの警察に通報するとともに、援護が必要とされる場合には末尾に記しました問い合わせ先までご連絡ください。

5.睡眠薬強盗・いかさま賭博
(1)場 所:カオサン通り、王宮周辺及びスクンビット(アソーク近辺)
(2)手口:自称マレーシア人,韓国人等(国籍、男女別、人数は様々)から「今度、日本へ伯母が日本へ行くので、日本の事を教えて欲しい」などと突然声(英語、日本語混じり)を掛けられ、自宅と称する場所等(飲食店の場合も有り)に誘われる。そこで、飲食を共にする中、飲み物等に入れられた睡眠薬で昏睡状態になったところで金品等を奪う手口です。又は、最初は遊びでトランプゲームを勧められる中、勢いでお金を賭けるように仕向け、多額の現金を騙し盗ります。

6.窃盗被害等
(1)場 所:サイアムスクエア付近
(2)手 口:トゥクトゥクに乗車して移動中に後方から近づいたバイクに乗った者が膝の上に置いてあったバック等をひったくり逃走する手口です。
 
 7.宝石店又はスーツ仕立店とのトラブル
 (1)場 所:王宮周辺、カオサン通り
(2)概 要:タイ人男性に「良い観光スポットがあるから」と声を掛けられトゥクトゥクに乗せられます。観光案内の後に、「この近くに良いお店があるから」と『宝石店』又は『スーツの仕立て店』に連れて行かれ、相当額の宝石の購入又はスーツの仕立てを強く勧められ、断ることができずに購入してしまいます。後になって購入したものが粗悪品であることが判明します。

8.レンタルバイク又はジェットスキー業者とのトラブル
(1)場所:リゾート地(パタヤ、プーケット島及びパガン島など)
(2)概要:レンタル業者にバイク又はジェットスキーを返却する際に「傷を付けた」、「破損させた」として高額な修理費を請求され業者との間でトラブルとなります。また、損害保険に加入している業者が少なく、万が一事故を起こした際には高額な修理費の支払いを求められます。なお、当地での運転に関しても運転免許証または国際運転免許証が必要であり、仮に無免許による事故を起こした場合には保険の適用が受けられず高額な医療負担を強いられます。

9.万引き
空港の免税店等において、日本人が万引きで逮捕される事例が時折報告されています。タイにおいては、万引きに対し厳しく対応しますので、たとえ小額商品であっても警察に引き渡され、裁判が行われるまで3か月程度拘置所に収監されることとなります。裁判の結果、数か月から数年の禁固刑を言い渡される場合もあります。


(問い合わせ先等)

○在タイ日本国大使館領事部
   電話:(66-2207-8502696-3002(邦人援護)
   FAX :(66-2207-8511

○在タイ日本大使館ホーム・ページ




2012年6月25日月曜日

O四金物(マルヨンかなもの)

震洋特攻隊


二次大戦中の「震洋特攻隊」基地、新北市で発見

(台北 24 中央社)中華民国の最高監察機関・監察院が23日、台北の近郊・関渡に二次大戦中の旧日本海軍の「震洋特攻隊」基地があったことを確認、新北市政府に「史跡保存」を要請している。台湾紙「中国時報」が24日付けで報じた。

監察委員3名が2010年に離島の澎湖で日本軍が残した弾薬庫を調べた際、意外に「震洋特攻隊」基地の遺跡を発見し、今まで澎湖の西嶼と望安、高雄の左営、屏東の車城と合計4か所が確定されたが、新たに淡水の近くにある関渡にも基地の遺跡が発見された。

調査をした李炳南委員は23日、媽祖を祀る「関渡宮」の左後方向の麓で、「震洋特攻艇」の格納壕3カ所が発見されたことを明らかにし、新北市当局に遺跡の再建と保存を要請すると述べた。

「震洋特攻隊」は日本が敗戦1年前の1944年に編成された。特攻艇は長さ5メートル、幅1.2メートル、自動車用のエンジンを使用、250キロ爆弾を積むスピードボートで、一人で操縦、時速25ノットでアメリカの戦艦に体当たり、撃沈するのが目的だった。

しかし、「震洋特攻隊」は編成後、訓練は実施されたが、実戦に参加する前、日本が1945年(昭和20年)815日に無条件降伏し、幻の特攻攻撃となった。


中央社日本語版 Taiwan Today 2012/06/24


2012年6月22日金曜日

大使館からのお知らせ


反独裁民主戦線(UDD)によるデモ集会等について
(6月21日現在)

1.治安当局等によれば,反独裁民主戦線(UDD:通称「赤シャツ・グループ」)は,
立憲革命80周年を記念し,以下のとおりデモ集会等を行う模様です。

●日  時 6月24日(日)10時~24時
●場  所 ラーチャプラソン交差点及び民主記念塔、デモ行進順路は下記参照
●人  数 1万人以上が参集する可能性有
●デモ概要 ・10時~12時,ラーチャプラソン交差点にてデモ集会を行う。
・12時~17時頃,車両に分乗してラーチャプラソン交差点を出発し,民主記念塔を
目指しデモ行進を行う。

【順路】

・ラーチャプラソン交差点→ペッブリー通り→(クロンタン経由)→ラムカムヘン通り
→(バンカピ経由)→ラップラオ通り→パホォンヨーティン通り→(戦勝記念塔経由)
→ラーチャテーウィー通り→(国会議事堂前経由)→ラーチャダムヌーン通り→
民主記念塔
・17時頃(デモ行進が民主記念塔到着時)~24時,民主記念塔においてデモ集会
を行う。

2.つきましては,上記1.のとおり,UDDによるデモ集会及びデモ行進の影響により,同
集会及び行進が実施される周辺においては交通渋滞や人の混雑が予想されますので,
報道等から最新情報の入手に努めるとともに,同集会が実施される周辺に近づく場合に
は,十分に注意を払ってください。


(問い合わせ先)
○在タイ日本国大使館領事部
 電話:(66-2207-8502696-3002(邦人援護)
 FAX :(66-2207-8511

2012年6月18日月曜日

ナガランド



ナガランドとは、ミャンマーと国境を接するインドの最東端。

ナガランドを中心に住むナガ人は、チベット=ビルマ系の言葉を話すモンゴロイド系民族で、人口約300万人。一部はミャンマー領内にも住んでいる。数十年前までは「男は首狩りをしないと結婚できない」という民族だったが、20世紀に入ってキリスト教の宣教師が盛んに布教をし、現在ではほとんどがキリスト教徒になっている。

19世紀、インドとビルマの植民地化を推し進めるイギリスに対しても、ナガは激しく抵抗した。マスケット銃を装備したイギリス軍に対して、槍や山刀で村を守ろうとする人々。100年に及ぶ戦いでも、イギリスはついにナガの地ナガランドを完全に支配することができないまま、植民地放棄のときを迎える。しかしイギリスは撤退に際し、ナガランドをインド・ビルマへと一方的に割譲した。イギリスが地図上に引いた身勝手な一本の線は、後にインド・ビルマ"国境"としてナガランドを大きく二分するものとなった。

ナガランド独立のきっかけとなったのは、日本軍のインパール作戦だ。1944年、日本軍は「ビルマからインドへ攻め込めば、英国の植民地支配にあえぐインド人大衆が合流して戦局を一気に好転できる」と、当時から一部無謀だとも言われたインパール作戦に突入。マレー半島などで日本軍に投降した英軍インド兵を「インド国民軍」に再編して日本軍に同行させた。そして3月にはインパールとともにナガランドの中心地・コヒマまで到達した。この時、ナガ人たちは日本軍を「解放者」と見て協力する者もいれば、英軍に協力して抵抗する者もいたが、後にナガ民族評議会(NNC)の議長となるピゾは、インド国民軍を率いていた自由インド政府のチャンドラ・ボースと接触し、「インド解放の後にはナガランド独立を認める」との約束を得て日本軍に協力した。

「ナガランド独立」を約束したチャンドラ・ボーズは飛行機事故で亡くなり、NNCは「インド独立の父」ガンジーと会見するが、イスラム教徒の分離独立に猛反対しパキスタンを含めた統一インドの独立を主張していたガンジーには、ナガランドの独立なんてトンでもないと諌められてしまう。

こうして孤立無援となったNNCは、インド独立の前日、1947年8月14日にナガランド独立を宣言したが、国際的にはまったく無視された、それが国際的に顧みられることはなかった。

ナガはその後もインド総選挙のボイコットや、自主的な住民投票で9割が独立を主張するなど、平和的手段で強制併合への異を唱え続ける。これに対するインドの答えが、大量の軍・警察の派遣による徹底的な武力弾圧だった。「文明的に遅れた人々を支援する」とインド建国の父、ネルーはこの軍事作戦をそう説明した。

インド軍はナガランドに近代兵器を持ち込み、ナガのアイデンティティの基盤である村を徹底的に焼き払った。1955年からの3年間だけで645ものナガの村が焼かれ、村人たちはなすすべなく山中へと逃げ込んだ。掃討作戦に怯えてジャングルを逃げまどう生活は続き、戦闘や飢餓、病気などにより、この時期だけで10万人ものナガの命が奪われたといわれている。

そこでは軍による弾圧が日常的に行われた。抵抗する男たちに対して投降を呼び掛けるため、見せしめとしてその家族が拷問にかけられ、悲鳴が連日のように各村一帯に響き渡っていたという。女性に対する性的暴行、繰り返される拷問と虐殺。農作業に出ることさえ許されず、村はおのずと飢餓にあえぎ、体力のない者から順に命を落としていった。

 しかし当時のこうした惨状が、世界に伝えられることはほとんどなかった。インドはナガランドを「立ち入り制限地域」として民間人の入域を厳しく制限し、その実情が外部に漏れることを防いでいた。ナガ側はあらゆるルートを通じてイギリス、国連などに窮状を訴え、介入を促す嘆願を続けたが、それらが顧みられることはついになかった。

 独立運動の母体となったナガ民族評議会(NNC)の倉庫には、インド軍による弾圧の詳細な記録が今も眠っている。決して聞き届けられることがなかった、ナガの村人たちの悲鳴。それらを「ナガ側の一方的な主張」と切り捨てることはできない。今日に至るまで事実を意図的に隠蔽し続けているのは、他ならぬインド政府自身だからである。

1997年、ナガの全武装組織がインド政府との停戦に応じ、以後インド軍による大規模な軍事作戦は影を潜めている。しかしインドによる軍事制圧状態と、にらみ合うナガ独立運動組織という構図は今も変わっていない。

また、ドラッグ禍も現在ナガの若者の間で深刻な問題になっている。ビルマ領からマニプル州を経て、大量の麻薬がナガランドに流入しているが、これは「インド軍や政府関係者が裏で糸を引いている」と言われている。独立運動組織が検挙する麻薬は大麻樹脂、ヘロイン、化学合成薬品と多岐にわたり、量も一度に数百キロにおよぶこともある。延々と続く紛争状態に失望した多くの若者がドラッグに手を染め、またそれによってインド軍に操られているのだという。

独立したいと言う気持ち、またインド人に搾取されていると言う気持ちはナガの人たちは誰しもが持っている。しかし近年ナガランド州、及びマニプール州は入域制限も解け外国人でも何処にでもいけるようになった。特にナガランド州は観光に力を入れたいという気持ちが其処彼処に見える、インフラさえ整えばナガランドの潜在能力はかなりあると思うのである。

そしてナガの人々は我々日本人に親近感を持っている、同じモンゴロイド系ということでインド人よりはるかに日本人に似ているのだ。ナガランドにいるとインドにいることを忘れてしまうのだ。



一部ナガランド連邦より抜粋
http://www.geocities.jp/keropero2003/syometsu/naga.html

2012年6月17日日曜日

コヒマからディマプールへ



多少スケジュールの変更はあったが旅の行事もすべて終わり、本来ならばこの日はディマプールに宿泊の予定だったのだが移動をせずにコヒマに泊まった。

最後の夜は直会と言う事でホテルのロビーを早々に占拠した。

アメリカ人とイギリス人の宿泊客もいたので一様お誘いはしたが、結構ですと言うことだったので我々だけの直会となった。

ここでホテルを紹介したい、このホテルに泊まった理由は実は昨年泊まったホテルが予約が取れなくて、何処も此処も一杯だったのである、インパールのホテルも実は予約が取れていなかったのだが無理を言って無理矢理空けてもらったと言う経緯があった。
無理矢理と言うのが他のホテルには泊まりたくなかったと言う理由もある、此処で理由は書きませんがインパールに行けばわかります。


コヒマのホテルであるが名前は「Razhu Pru」見た瞬間は「何だよゲストハウスかよ」、また非常に古く、聞いたところによると70年前に建てられたと言う、おそらくは別荘か民家として建てたのではないかという雰囲気であった、しかし中に入ったら居心地がいいのである、正直に言えば他の方はどう思われたかわかりませんが、昨年泊まったホテルよりもアットホームで従業員が控えめで親切なのである、と言うう事で今後コヒマの常宿が決まった。

 ホテルRazhu Pru
Naga Village Road, Kohima 797001, India

次の日はコヒマからデイマプール空港へ向かうことになった、デイマプールは初めてだったのでコヒマに着いた時、ホテルの従業員にデイマプールまで何キロくらいか聞いていた

「そうですね70キロくらいですかね」
峠の檳榔売りの親父朝っぱらから酔っ払っていた

大して時間はかからないだろうと思っていたのが大間違い、3時間ほどかかってしまった、ドライバの運転にもよるのだが、確かにドライバーは檳榔を噛みながら酔っ払っていた、途中で運転を代わってやろうかとも思ったが、時間に余裕があったのでそのままにしておいた。

デイマプール空港は小さくて何処の空港にも例え様がないくらい人がいませんでした。
がしかし警備だけは厳戒態勢でした。




2012年6月15日金曜日

コヒマカトリック大聖堂



コヒマには、日本のコヒマ戦生存戦友会、また遺族などがお金を出し合って建てたカトリックカテドラルがある、戦没した日本、イギリス、インドの全ての兵士の冥福を祈ったのだ。それは見事な大聖堂で収容人員は約3000人、また内側などもすばらしく、ジーザスの十字架は一本の木で作ってあるそうだ、何故そんな事を知っているかと言うと、説明してもらったんです、係りの方に。
カテドラルの中小さく見えますけどジーザスは3-4メートルあったんではないでしょうか

係りの方がどちらからお越しですか?

はい、日本から来ました。

そうですか、横に此処を建てた 奉納趣意書 がありますので見てくださいと案内された。



奉納趣意書

一九四四年の春、ここコヒマでは、ガリソン高地の争奪に日・英両軍が鎬を削って戦い、彼我合わせて数千の将兵が、祖国の為に死んで逝きました。

“君、故郷に帰りなば伝えよ
  祖国の明日の為に死んで逝った
    われらのことを“

ガリソン丘にあるこの碑文は、亡くなった日・英・印全将兵に共通の想いであり、そして彼らが願った「祖国の明日」とは、平和と繁栄に満ちた祖国だったと確信します。
しかしいまや世界は狭くなり、世界の平和なくして祖国の平和も繁栄も有り得ません。私たちはお互に国境を越えて共存共栄に努力することが大切であり、これが引いては、亡き勇士達の願いに応える事にもなりましょう。
このたび、カトリックの聖堂がコヒマに建立され、朝夕亡き勇士にミサを捧げてくださることは誠に有難いことです。又、地元の皆様が司教様と一緒に末永く往時の勇士を偲んでくだされ、彼らが願った平和と繁栄の為に精進くださるならば、これに優る供養はございません。
玆に、私達生き残り戦友並びに遺族相諮り、聖堂建立資金を集めて奉納する次第です。

合掌

一九八九年一月吉日

  日本国
    コヒマ戦生存戦友
    同 戦友者遺族  一同


そしてその横にはなんと桜が咲いていたのである、5月25日である、当に散っているはずの桜が、日本の桜ではないのではないか?

いや間違いなく日本の八重桜だ。

係りの方に聞いたら、このカテドラルを建てた時に同じく日本の桜を回りに100本ほど植えたのですよと言う返事だった、しかし係りの方も首をかしげながら毎年4月に咲き、既に散っているはずなのですがね、と言っていた。

我々はこれに感動し、英霊が間違いなく待っていてくれたのだと勝手に思い込んだ次第であった。

地理的に行けば日本軍はマオサンソン方面からコヒマに到着し此方の高地を占領したのだと思われる、インパール作戦記やコヒマ戦等を読んでも現在のどの位置かは中々判らない。

ウ号作戦によるインド方面戦死者、烈師団は1万1500名、弓師団1万2500名、祭師団1万2300名、内2万名以上のご遺骨が未だご帰還叶わず現地に埋もれている、現在ナガランド州もマニプール州も入域制限も解け比較的治安も安定している、この様な時にいっきに大規模に捜索をしなければ何時遣ると言うのだろうか、日本政府は本気で探す気があるのだろうか、時が経つのを待って有耶無耶にするつもりではなかろうか、日本人全ては考えなければならない「有耶無耶にしたならば日本人ではなくなるのである」現在の日本の繁栄は万斛の想いを胸に秘めて散った英霊の上にあるのです。
日本合衆国にでもなればそれは探さなくてもいいでしょう、しかし日本が日本である以上は最後の一体まで探さなければならないと言う事なのである。それが判らなければ日本人をやめて下さい。





2012年6月13日水曜日

ギャリソン高地


英印軍墓地
When you go home,
 tell them of us and say for you tomorrow
 we gave our today

日本軍はコヒマを占領したと考えたが,実は,そこはコヒマの一角であり,ディマプールからインパールに連なる自動車道路を完全に遮断するには,英軍陣地のあるコヒマ南西の三叉高地を確保する必要があった。英インド軍は,谷間のコヒマから撤退し,南西の三叉高地に防衛線を張った。第5インド師団の第161旅団の増援を受けたコヒマの英インド軍は,兵力3000人で,頑強な抵抗を示した。

1944年4月17日,第十五軍司令官牟田口中将は,第三十一師団「烈」佐藤師団長に,天長節(4/29)までにインパールを攻略することを命じる一方,山砲大隊と歩兵3個大隊をインパール方面に転用を命令した。しかし,佐藤中将は,兵力の転用が不可能なことを伝えた。
現在の三叉路

烈兵団は,コヒマ南西の三叉高地を攻略できず,敵3個師団の攻撃,100門の火砲から11万発の放火を浴び苦戦中 であった。


ギャリソン高地は現在英印軍墓地になっておりますが、1944年4月この高地をめぐりん劇烈な白兵戦が日英軍によって行われた双方の戦死者数千に及んだ。

はっきり言って現在でも此処まで来るのに一苦労します、日本軍はそれをビルマから一ヶ月足らずで、迎え撃つ英軍もそれはビックリしたに違いありませんが、よくも此処まで来た者だと。

ギャリソンヒルには英印軍の慰霊碑しかありませんが、その一角に金網で囲い桜の木が植わっていました、おそらくまだ3-4年しかたっていないでしょう、インパール戦記にも出てきますが、このギャリソン高地には当時大きな桜があったそうです、おそらく日本の桜とは違いましょうが、戦友会の方が植えられたのでしょう、現在植えられているのは見る限り日本の桜の様でした。