2011年8月31日水曜日

北投温泉と芝山公園


台北から淡水線に乗り北投へ、北投で乗り換え新北投まで一駅、北投温泉がある台北から30分と言う所でしょうか、大正時代に建てられたレンガ造りの建物や最近では北陸の温泉の加賀屋まで進出してきている。


私は加賀屋に泊まる余裕も時間もなかったので、100年以上前から営んでいるという瀧乃湯に入った通常台湾の温泉(露天風呂など)では裸にならないのだがここは室内とあって皆素っ裸なのだ、しかし何とも古い温泉でした。

この北投温泉と言うのは放射能を出す石、北投石で有名で微量の放射能を出すそうなんです、でこれを発見した人が岡本要八郎明治38年(1905年)に瀧乃湯で入浴した帰りに付近の川で発見したとされている。入浴が終わり番頭の親父に私も川で北投石を見つけたいのだがと話してみるが、とんでもないと言う顔をされました。翌々親父に話を聞いてみると北投石と言うものは今は見つからないし川にも入ってはいけない、またその石の値段はグラム換算にすれば金の2倍から3倍すると言う事であった。希少なんだな

帰りは士林の一つ手前の芝山と言う駅がある私は台湾に来た際はここへ何時も立ち寄るようにしている。六士先生と言う墓碑が立てられていてここへ御参りする為であるが、夏場のこの道は堪えるのである。


現在の芝山公園入口。この石段は昭和5年に六士先生を祀って建立された芝山巌神社の参道で、戦後は廃祀され本殿跡に雨農閲覧室が建てられた。


芝山巌事件の勃発とその背景

芝山巌の学堂は山頂に位置し、恵済堂という廟に設けられていた。現在、廟そのものは新しい本堂が完成しており、往年の様子をとどめていないが、当時はここで日本語教育についての研究が行なわれ、教科書の編纂も進められていた。そして、伊沢自身、新領土においていかに教育制度を構築していくか、考究を続けていたという。当時、台湾では日本への割譲に反対する勢力が激しい抵抗を続けていた。民衆は寝耳に水だった日本統治を受け入れるはずがなく、武器を手にとって、激しい抵抗を繰り広げた。まさに全島が戦火に包まれた状態であった。この地も決して安全な場所ではなかったが、伊沢たちは学堂に泊まり込んで作業に没頭したという。日本統治時代の文献によれば、「身に武器を持つことなく民衆の中に入っていかなければ、教育というものは出来るものではない。もし我々が襲われて、殉ずることがあっても、台湾子弟に日本国民としての精神を具体的に見せることができる」という言葉を残し、死を覚悟した上で、その場に居座ることを決めていたという。

事件は領台の翌年、1896 年の元旦に起こった。士林一帯の叛乱勢力が元旦を期して蜂起したのである。不穏な動きを察知した人々は、繰り返し日本人教員たちに避難を勧めたという。
この時、伊沢と山田耕造は上京中で台湾に不在だった。その留守を守っていた楫取(かとり)道明以下、6名の教員たちは台湾総督府で挙行された新年の祝典に参列するべく、市内へ向かっていた。基隆川の渡船場までは来たものの、台北城内周辺はすでに匪賊の包囲を受けており、近づくことは不可能だった。台北城に入れないことが分かった一行は、士林の警察官吏派出所へ向かった。そこで士林一帯もまた、非常に危険であることを知らされる。とりわけ、芝山巌は襲撃対象となっており、ここでも退却を勧められたという。しかし、楫取の答えは、

「死して余栄あり、実に
死に甲斐あり」


というものだった。たとえ、説得の利かない相手であっても、もし、逃げてしまえば、臣子の道をはずすことになる。そういって、教員たちはゲリラによる襲撃を知りながら、教育者として説得にあたることを選んだ。そして、約100 名とも言われるゲリラの襲撃を受けることになる。6名の教員と用務員の小林清吉はむなしくも惨殺されてしまった。台湾総督府が残した資料によれば、ゲリラに囲まれた際、教員は諄々と教育の意義を説き、一時は彼らを説得できたと言われるが、結局のところ、聞き入れられることはなく、襲われてしまった。
この時、匪賊たちの間には、日本人の首を取れば賞金がもらえるというデマが流れていたと言われ、惨殺に及んだという。そして、学堂内の備品や衣服、所持品などを奪い、逃走していったという。
その後、1月8日に総督府職員が教員たちの亡骸を収容するべく、当地に赴いているが、その際、教員たちの遺体は学堂近くに埋められていたという。これは壮絶な最期を不憫に思った住民たちによって埋葬されたものだった(平井数馬と小林清吉の遺体は見つからず)。これは、ほんのわずかな期間ながら、地元住民たちとの関係が築かれていたことを示す小さなエピソードといえよう。この事件は大きく報じられた。その見方は、犠牲者は台湾で教育に生命を捧げた聖職者。そして、襲ったのは悪辣を極めた匪賊の輩。新領土に命を捧げ、殉職した6名の教員は英雄となり、そのエピソードは美談として広く紹介された。
その後、芝山巌は「教育の聖地」とされ、殉職教員は「六士先生」と呼ばれるようになった。そして、命をかけて教育に当たるという姿勢が「芝山巌精神」と称され、終戦まで、台湾教育界の指針とされた。学校教育の場では必ずと言っていいほど、六士先生のエピソードが教えられ、教科書や副読本にも盛んに登場していた。戦前の台湾に生まれた人々は、幼少時代、毎年1月1日に挙行される慰霊祭や2月1日の神社例祭日に参列したり、遠足でこの地を訪れたりした人が多い。まさに、芝山巌事件は台湾史を知る上で、見落とすことができないものと位置づけられていた。以上が芝山巌事件の大まかな概要である。


六士先生の歌
作歌:加部巌夫作曲:高橋二三四(ふみよ)
1
やよや子らはげめよや
学べ子ら子供たちよ
慕へ慕へ倒れてやみし先生を
2
歌へ子ら思へよや
すすめ子ら国のため
思へ思へ遭難六士先生を


芝山巌神社跡現在は柴山公園入り口

芝山巌神社創建

その後、ここには神社が創建された。この神社は昭和天皇の即位を記念して、創建が
建議されている。造営は1930(昭和5)年1月15日に終わり、ここに芝山巌神社が誕生した。遙拝だけを目的とする神社で、社格はなかった。しかし、本殿や拝殿、鳥居、参拝記念碑などを擁し、規模の大きな神社であった。資金は台湾の教育関係者による寄付により、金2万円が投じられたという記録が残る。
この神社には台湾の教育に殉じた人々が合祀されていた。その数は1933(昭和8)年までに330名となり、その中には、台湾人教育者24 名も含まれていた。こういった個人たちが神社祭神となることは、当時としては珍しいケースであった。台湾の教育事業に従事する者はほぼ例外なくここを参拝したと言われる。中でも台湾の学校で教鞭をとる者は、籍を問わず、参拝を繰り返したと
いう。たとえば、台中県の清水(きよみず)には、赴任した学校長(日本人)が、芝山巌参拝時に持ち帰った自然石を校内に安置したというエピソードが存在する。言うまでもなくこれは児童に「芝山巌精神」を伝えるという名目だった。石の表面には「誠」という文字が刻まれており、現在も校舎の正面に置かれている。

教育の聖地・芝山巌を歩く
片倉佳史より


熊本県熊本市小峰墓地、昨年お参りに言った際の写真です。

「六士先生」6人の教師
 楫取道明 (山口県、38歳、吉田松陰の甥)
 関口長太郎 (愛知県、37歳)
 中島長吉 (群馬県、25歳)
 桂金太郎 (東京都、27歳、東京府士族)
 井原順之助 (山口県、23歳)
 平井数馬 (熊本県、17歳)

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