2011年2月15日火曜日

マニー・パッキャオとデビッド・ヘイが戦う確率

 1941年12月に、大日本帝国陸軍第25軍がマレー半島に上陸した時、英領インド軍第3軍団(オーストラリア第27旅団および幾つかの英本国軍大隊を含む)がこれに立ち向かった。北部マレー半島で日本軍は数的には僅に優勢であるにすぎなかったが、制空権・戦車・歩兵戦術・戦闘経験において優越していた。
日本軍に航空優勢をとられたため、連合軍は切り札として期待していたイギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを撃沈されてしまった(マレー沖海戦)。日本軍は難攻不落の要塞と考えられていたシンガポール島にむけ、マレー半島を着実に進撃した。シンガポールは第二次世界大戦における連合軍初の合同司令部である、アメリカ・イギリス・オランダ・オーストラリア連合司令部(ABADACOM)の結節点であった。
1月31日、最後の連合軍部隊がマレー半島から撤退し、工兵隊がジョホール・バルとシンガポールを結ぶジョホール・シンガポール・コーズウェイを爆破して約20mの穴をあけた。しかし、その直後には日本軍の襲撃部隊や浸透部隊がゴムボートを用いてジョホール海峡を渡り始めていた。

 これは少年戦車兵の日記でも手記でもない。作戦に忙しいこの若武者達にはそんなものを書いてゐる余裕はまったくなかつた。戦車隊はマレー作戦では殆ど先陣を切ってばかりゐたし、その陣頭には十五名の少年戦車兵がゐたけれど、いずれも七十余日の征旅を寸刻の余裕もなく働きつずけた。彼らはスリムの激戦のさなかにお正月を迎へて一つずつ年を取つた。けれど十八歳から二十二歳の若さである。ここに揚げる一文は記者折に触れて書きとめておいた若武者たちの言葉を折つずり合わせたもので、語り手は 遠藤三郎(香川県大川郡石内村) 西村雅男(高知市田場町)藤本幸男(熊本県湯前町)一色峰男(愛媛県任生川町)藤井博(愛知県牛久保町)大前一郎兵衛(京都市左京区銀閣寺町)下和田巌(鹿児島県日置郡永吉村)の諸君

 僕らの部隊はいよいよ出征ときまつたらしいが、どうやら僕ら少年戦車兵だけは残される模様だ。そこでみんなが集まつて相談してみたところ、残されるくらゐなら死んだ方がましだといふことに意見が一致したので代表五名を選んで部隊長殿に嘆願してみた。

 部隊長殿は「軍隊は何事も命令だ。内地の原隊で訓練してゐることも立派な御奉公だから、なにぶんの命令があるまで待て」といはれた。それから僕らは毎晩戦争の話しをした。ところがO月O日夢に見ていた出征命令だ。ああ嬉しくて嬉しくてたまらない。上陸して初めて知つたのであるが、僕らの初陣の戦場は英米をやつつけるマレー戦線であつた。まつ黒のインド兵とまつ白な英豪兵と戦ふことが何かしら世界的舞壷のやうな気がしてたまらなく心が勇んでくる。

 最初の戦ひは英領マレー国境近くのジツトラであつたが僕ら十五名はお互いに手を握り合つて「しつかりやらうぜ」と励まし合つて、それらポケットに入れてあるお父さんやお母さんや姉さんの写真を調べてみた。

 僕ら十五名はみんな操縦手だつた。僕らが少しでも操縦にドジを踏めば戦争全体が滅茶苦茶になるのだと考えると今更ながら自分の重い責任を感じる。戦車に乗り込む前に目をつぶつて、もういちど原隊にをられる教官殿の訓練を思ひ出して見る。これでいくらか心が落着いた。やがて前進命令、しつかりと操縦桿を握つた。ああ何といふことだらう。僕らは何の考えもなしにただまつしぐらに進んでゐるのに、もう敵陣のまっただ中へはいりこんでゐるのだ。轟音のために敵の大砲も友軍の射撃も何も聞こえぬため状況がさっぱり分からないけど、僕らの戦車のすぐ傍らを黒人兵がフルスピードで通り過ぎていつたので、初めてここが敵陣の渦中と分かつたのだ。


 止まったり進んだり、ただ命令に従つて夢中になつてゐるうちに夜が来た。僕らはここで一旦停止することになつた。戦車から出ると今までは相當の激戦で敵は物凄い砲撃を戦車に加えて来たのだと言ふ。僕らはそんな激戦を知らずにゐたことを惜しいやうにも、また申譯ないやうにも思つた。しかし何しろ腹が空いた。そして無茶苦茶に眠い。マレー人がゴム林の中から手招きをするので行つてみると飯が炊いてあつた焼豚のご馳走もある。丁寧にお辞儀をしてからそれを鱈腹食べた。食べ終わると僕らは直にゴム林の中でそのままゴロリと眠つた。

 夜が明けたら隊長殿が「おい、みんなよく寝てゐたなあ、ゆうべは凄い敵の逆襲があつてこの浜はヒユンヒユンと砲弾が来たんだぜ。よつぽど起さうかと思つたけれど寝かしておいてやつたよ」といはれて僕らははずかしかつた。上陸の夜から眠つてゐないから疲れてゐたとはいへ申譯ないことだ。

 僕らはその後段々戦場へ鍬へられていつた。カンバルやスリムの戦争もすさまじかつたが僕らにいちばん思い出になるのはゲマスの戦争だ。僕らはシンガポール一番乗りをめざしてジュホール州攻撃の先陣を切つて凄いスピードで進んでいつた。

一月十五日の夜、州境ゲマスの町の入り口にある長さ五十メートルの橋を戦車が渡つて、その後歩兵の一部の戦車部隊が渡りきつたとき電気仕掛けで橋は爆破されてしまつた。僕らはこの歩兵部隊とともに敵中に孤立しなければならなかつた。突然火の玉がバツと額に突き當るやうな感じがした。目がくらくらとなつて操縦幹が思わず手から離れようとした。例によつて履隊の喧しさの為に音こそしないけれど敵の砲撃は相當に激しく、火の玉はいくつもいくつもやって来た。戦友の森田章三君(鳥取県)が操縦してゐる第一車はそれでもどんどんと進んでいつたが、突然きりきりと方向を換へて隘路になつてゐる山肌にめり込んでしまつた。よく見ると各坐したまま第一車は盛に砲を射つてゐる。ところが続く第二車は第一車を乗り越へて更にぐんぐんと前へ出たが、これも各坐したらしく第一車、第二車が道路の上に寝てしまったので第三車が通りにくくなつた。

 すると第三車から垣川周八伍長(熊本県牛深町)が飛び出て悠々と誘導をやり始めた。戦車はこの道路両側にある敵の歩兵陣地へ向かつて体当りを食はせるために凄いスピードで前進することになつた。そのころ友軍の迂回部隊が敵の背後に廻つたので、さすがの砲撃も止んでしまつた。みんなで僕ら少年戦車兵最初の犠牲者森田章三君の墓を作ることになりゴムの木を削つた。どこを探しても墨がないので万年筆の中のインキを出して隊長殿から「陸軍軍曹森田章三の墓」と書いて貰つた、、、

 森田よ、僕らは二月九日戦車では困難といはれたシンガポール島の上陸に成功した。随分射たれたけれどシンガポール街道を驀進してブキテマ町魔の三叉路を真先に突破し、そして紀元節には誰よりも先にシンガポールの一角に突入した。森田よ僕らはシンガポールの攻略戦で決して少年戦車兵の名を辱しめるやうなことはしなかつたから安心してくれ。



山下、パーシバル会談

「あなたはどなた」

とまずはワイルド少佐を指さして名前を聞いた。

 山下将軍は淡々と
「先ほどワイルド少佐から簡単なお手紙を受け取りましたが、日本軍としてはただ無条件降伏にのみに応じます。無条件で降伏するかどうか、イエスか、ノーか、でお答え願いたい。」

即座に「イエス」という答えが出るものと誰もが思っていた。
パーシバルは伏目のままワイルド少佐に耳打ちした。ワイルド少佐は震えていた、アクセントのない日本語で
「明朝までに相談してご返答いたします。」

と答えて山下将軍の顔を盗み見したが、将軍のこめかみが大いなる憤りのためか痙攣しているをを早くも見て取って、サット顔を伏せた。

「今更の相談があるのですか。いったい貴方には降伏する意思があるのか疑わしい、戦争をおやりになるつもりなら大いにやりませう。日本軍は今夜私の攻撃命令を待っています。シンガポールは今夜夜襲をもって攻撃を加えます。」

その言葉はパーシバルにとって聞くに堪えない恐怖であった。シンガポール夜襲こそ最も惨烈な敗北であることを誰よりもパーシバルがよく知っていた、彼の決心はこの時初めて固まった。

「無条件降伏に応じます」

大英帝国がアジアから敗北するときの力無きその声を今一度繰り返そう

「無条件降伏に応じます」


 イギリス陸軍は敗北を喫し、シンガポールは陥落した。この戦いで、約8万人の英本国兵や英領インド兵や英領オーストラリア兵が捕虜となり、マレー半島の戦争で投降した5万人に加わった。
印度洋と太平洋を結ぶこの地がチョークポイントであることで十分であろうしイギリスが東洋艦隊に最新鋭の戦艦を派遣したことからこの地の重要性は理解でき、その陥落は欧州の東アジア支配の終焉を意味していたともいえるほどの重大な影響を与えた。
このイギリス軍の敗北は、当時イギリスの植民地であった東南アジアの民衆を鼓舞したという説がある。当時のイギリスは世界最大の植民地帝国であり、中でもシンガポールはアジアにおけるイギリス海軍の最大規模の拠点であり、「東洋のジブラルタル」と呼ばれていた。そして、1945年に日本軍が連合国軍に敗北した後に、勝戦国であるヨーロッパの植民地宗主国軍(英・仏・蘭)は再び侵攻したが、東南アジアの民衆は宗主国軍に勝利し、植民地からの解放を勝ち取った。
このシンガポール陥落また大英帝国戦艦のプリンス・オブ・ウェールズやレパルスが日本軍に撃沈された事はイギリスにとっては不幸であるが、これを大喜びし、記念として扱っている国がある。その国はイギリスに長年植民地とされ過酷な搾取を受けたアイルランドであり、一部のアイルランド人がいかに坊主憎けりゃ袈裟まで憎いほどイギリスに対する憎しみを持っていた事が捉えられる。
当時、自由フランス軍の指導者であったシャルル・ド・ゴールは、「シンガポールの陥落は、白人植民地主義の長い歴史の終わりを意味する」と述べた。

なお、戦後に山下が戦犯として絞殺される際、米軍はパーシヴァルをわざわざ呼び寄せて絞殺を見物させた。



マニー・パッキャオとデビッド・ヘイが戦う確率

何故ここにフロイド・メイウェザーと書かないかメイウェザーは現在刑務所にいて非常に戦う確率が低い、またパッキャオの次戦は5月7日ラスベガスのMGMグランドでシェーン・モズリーと決定しております。

シェーン・モズリー偉大な選手ではありますが何分年を食い過ぎている、以前のような動きはできないでしょし、パッキャオが勝利することは間違いないでしょう。
そこで誰がパッキャオを止められるか、又凡戦ではいけませんので、興行的にも大成功するマッチでなければなりません、昨年のアントニオ・マルガリート戦を観た後思いました、これはデビッド・ヘイ以外に止められないのではないかと、そこで試合が実現するか否かは別にして体格やその他を比べてみましょう。


マニー・パッキャオ現在WBC世界スーパーウェルター級王者

プロボクシング:57戦 52勝 (38KO) 3敗 2分

身長 169cm
リーチ 170cm
スタイルサウスポー


獲得タイトル

WBC世界フライ級王座(防衛1回)
IBF世界ジュニアフェザー級王座(防衛4回)
WBC世界スーパーフェザー級王座(防衛0回=返上)
WBC世界ライト級王座(防衛0回=返上)
WBO世界ウェルター級スーパー王座(防衛1回)
WBC世界スーパーウェルター級王座

体重差を乗り越えて各階級の人気選手を片っ端から倒し続け、ボクシング史上最多タイ記録のメジャー団体6階級制覇を達成したプロボクサーであり、また「事実上の8階級制覇王者」「史上最高のパウンド・フォー・パウンド王者」という評価の呼び声も高く、「2000年代最優秀選手賞」にも選出されている。
苗字を捩って『Pacman(パックマン)』「The destroyer(ザ・デストロイヤー、破壊者)」「Fighting Pride of the Philippines(フィリピンの戦う誇り)」「People's Champion (People's Champ)(人民の王者、庶民の王)」の愛称で知られる。
母国フィリピンでは絶対的な英雄であり、貧しく治安も悪い祖国を改善するために昔から政界を視野に入れた活動を積極的に行っており、2度目の出馬となった2010年の下院選挙では有力候補を抑えて当選し、プロボクサーと国会議員の二束の草鞋を履きながら活躍している。

 パッキャオが評価されている最大の理由はメジャー世界タイトル (WBA、WBC、IBF、WBO) 史上二人目である6階級制覇という数字よりも、世界王者の中でも超一流の選手を幾多の階級にわたって撃破(しかも、その多くは圧勝)してきた点にある。近年のボクシング界では自身が保持するメジャー世界タイトルを返上してでも他の強豪選手・人気選手とのビッグマッチを優先させる選手が多くなってきているが、その象徴的な選手がパッキャオである。複数階級制覇を狙うだけであれば、同じ6階級制覇のデ・ラ・ホーヤのように世界王者の中でも穴場の選手を選択していけばよいが、パッキャオはノンタイトル戦でマルコ・アントニオ・バレラに完勝してスターダムにのし上がったことをきっかけに世界タイトルを獲得することにこだわらなくなり、ビッグマッチを優先してあえて各階級の最強の選手と戦うようになった。つまり、階級やタイトルにこだわらず多くの超一流選手を撃破し続けた過程で、副産物のように「6階級制覇」と言う数字もついてきた形である。



デビッド・ヘイWBA世界ヘビー級王座

プロボクシング:26戦24勝22KO1敗

身長 191cm
リーチ 198cm
スタイルオーソドックス


獲得タイトル

コモンウェルスイングランドクルーザー級王座
EBU欧州クルーザー級王座
WBC世界クルーザー級王座
WBA世界クルーザー級王座(スーパー王者)
WBO世界クルーザー級王座
WBA世界ヘビー級王座

元WBC・WBA・WBO三団体統一世界クルーザー級チャンピオン

さてほんとにこんな試合があると思いますか?パッキャオ(現在フィリピン下院議員)は今や富も名声も有り次戦に勝って戦う本能があるならば本年年末辺り引退試合としてデビッド・ヘイ戦もありうるかな?

私としてはニコライ・ワルーエフとの一戦を観てみたいような気もしますが。

こんなのありえねえ~という人がいるでしょうがそのありえね~戦いをやって来たのがパッキャオなんです。
後はフレディ・ローチとプロモーターのサインがあれば何時でも行けるのではないでしょうか。

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