2010年12月9日木曜日

孔子平和賞って何?

ノーベル平和賞に対抗か 中国、「孔子平和賞」設立

【大紀元日本12月9日】ノーベル平和賞が中国で監禁中の民主活動家・劉暁波さんに授与されたことに対抗して、中国は自分たちの平和賞を立ち上げた。初年度の受賞者は台湾の連戦・国民党名誉主席に決定したもよう。

 AP通信は、中国の組織委員会からの声明文の内容を引用して、同平和賞は名づけて「孔子平和賞」、設立の主旨は「中国人の平和への認識を表現するため」と報道した。

 組織委員会の会長・譚長流氏は、同組織は政府機関ではないとしながらも、中国最高指導部の文化部と密接な協力関係にあると説明した。

 また、同組織委員会はいつ設立したのか、5人の審査委員はどうやって選出されたのかなど、さらなる情報について、同会長は説明を行わず、関連情報は今後公表するとしている。

 初回の候補者は6人、マイクロソフト社のビル・ゲイツ会長や、南アフリカのマンデラ元大統領、カーター元米大統領、パレスチナ自治政府のアッバス議長、 中国政府が認定したチベット仏教のバンチェン・ラマ11世が含まれている。初の受賞者は台湾の元副総統で国民党の名誉主席・連戦氏に決まったという。な お、受賞者へは賞金として10万元(約130万円)を贈るとしている。

 AP通信の報道によれば、連戦氏の受賞理由は両岸の交流にキーマン的な役割を果たしたことだという。一方、台北にある連戦氏の事務所の関係者は、AP通信の取材に対し、受賞の事実を知らないとしてコメントを避けている。

 初回の受賞式がいつ、どこで行われるのかもまだ公表されていない。


 ノーベル平和賞授賞式の1日前の12月9日に北京で「孔子平和賞」授賞式を行うそうだが茶番も良い所だ、こんな物で支那が言うメンツが保たれるのか、メンツを保ちたいのならば本物のノーベル賞(1億円以上)以上に賞金でも出したらどうだ 。



支那人の民族性、支那人とは何か?

ぼやきくっくりさんのブログから
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid923.html#sequel


ラルフ・タウンゼントの著書「暗黒大陸 中国の真実」(77年前の本)から引用

◎【改革・進歩は幻】

〈中国に〉進歩を期待する者は、まだまだ「素人」である。慈善事業家が、さも明るい未来があるかのように寄付を呼びかけ、討論会を開いている。確かに中国の「進歩」関連記事は紙上を賑わしている。国民党の出す公衆衛生、法の施行、刑務所の改善、国民の教育、農業改良などの政府刊行物だけを読んだら、簡単に騙される。さて、そのうちどれだけのものが実践されているか。要するに、これは海外向けの宣伝なのである。現に、中国人は現実が分かっているから、白けたものである。お人好しで、物を深く考えない外国人を欺くプロパガンダなのだ。多くの「物書き」はすっかり騙されているのである。

〈中略〉情報が氾濫しているが、まず中国人とはどういう人なのか理解することが問題解決の糸口となる。新聞で農民虐殺、成り上がり者による政変、内乱等を読んだら是非考えて欲しい。持って生まれた性格は変わらないのである。◎


◎【義和団事件と南京事件】
それにしても、なぜ中国人は外国人を虐殺したがるのであろうか。それは、外国人が裕福であるからである。また中国の指導層も同じで、略奪権を与えるのである。もちろん、中国軍が自国民つまり中国人を襲うことは日常茶飯事であるばかりか、殺そうと何しようとまったく平気である。外国人を狙うことはそう頻繁にあるわけではないが、やっても捕まらないと判断した時、やるのである。中国人に寛大な人が増えているから、ますます増長しているのである。◎

◎【中国人の特異性と残虐性】
「他人を信用する中国人はいない。なぜなら、自分が相手の立場に立ったら自分を信用できないと思っているからである」。◎

◎【複雑怪奇な性格と伝統】
国際化する世界は国際法というものに合わせて動いているのであるが、中国人が、もしこの国際法を尊重するようになったとしたら、世界中が平和になるが、違うのである。逆に、彼らの強烈な国民性ゆえに、中国関係はギクシャクしているのである。そればかりか、中国人同士でさえも良好な関係は築かれないのである。◎

◎【西洋社会と交わるところがない】
中国人でも我々の考えを理解できる。できなくても、努力することぐらいはできる」と考える向きもあるかもしれない。しかし逆のことばかり起きている。何の根拠もない単なる空想である。確かに、西洋文明を取り入れることはできる。ただし物だけである。◎

◎【虐殺されても中国人をかばう宣教師】
毎回同じことの繰り返しだ。クリスチャンに対する大々的な虐殺、略奪がしばらく鳴りを潜めると、宣教師たちは「とうとう中国人もキリスト教徒となってくれた」と喜びの声を上げる。一方、民間人は、「ちょっと待ってくれ。元の中国人にすぐ戻るよ」と。

数十年経っても同じことの繰り返しである。民間人の方が正しく、宣教師がトンチンカンな反応をしている。例えば、反宣教暴動が勃発する数週間、もしくは数ヶ月前の宣教師の文書をめくると、「これで反布教運動は終わった。目覚めた政府に導かれ、民衆は福音に目覚めたのである。これほど素晴らしい国民はいない。素晴らしすぎて褒め称える言葉が見つからない」とまで書いてある。

〈中略〉同様の賛辞に騙され、数千人が2年後の1900年、血の海に沈んだ。「守護神」であったはずの政府が外国人撲滅運動を画策していたのである。いわゆる義和団事件である。◎

◎同僚が惨殺されるのを何度も目の当たりにしながら、疑うことを止めないのが宣教師である。1926年になってさえも、国民党を中国人救済の最後の「盟友」と持ち上げている。おめでたい限りである。その1年後にはどうなったか。反クリスチャンの嵐が荒れ狂い、日本やフィリピンへと避難する羽目に陥ったのではないか。中国人の正体がわからないのか、知ろうとしないのか。攻撃体勢が整うまでは本心を表さない、手練手管に長けたのが中国人である。「同じ目的に向かい、手に手をとって進もうではありませんか」等と言われ、すっかりその気になるのが宣教師である。◎

◎ どうしても殺せない相手には敬服し信服するのが中国人である。宣教師はこの辺のところを見逃してきた。何度死んでもわからない。◎

◎【巨額の援助を不満とする中国人】
しかし前述したように、アメリカの一流大学に留学しても、出来が悪いのは同じである。実は、彼らに本当に必要なものは「徳育」である。これこそ中国人に欠けたものだが、簡単にできるようなものではない。◎

◎【犠牲者は圧倒的に住民】
〈共産党と国民党の戦いで〉もちろん、300万もの人間が戦えば(300万とは大げさだが、理論的にはいくつもの集団が集まって戦闘に参加するのだからこういう数字になる)、多くの死者が出る。ところが兵隊の死者はごく少ない。ほとんどは戦場となった地域の住民である。しかもほとんどが餓死である。米粒一つ残らず「友軍」に奪われるからである。◎

◎【中国に共和制などあろうはずがない】
本のタイトル「中国共和国」には皆笑ってしまった。もちろん、中国に共和制などあろうはずがない。政府と言われるものがあるにはあるが、選挙によって指導者を決めるわけではない。全くの独裁政権、
崩壊寸前である。◎

◎【南京虐殺に関する声明文】
ところが、この虐殺がピタリと止んだ。米英の軍艦の艦砲射撃が始まったからである。とたんにあちこちでラッパの合図があり、組織的破壊行動が止んだ。これで兵士の暴虐、破壊活動は上が命令した組織的行動だったことが証明された。

以上は嘘偽りの無い事実なのである。

この南京虐殺を画策したのは誰か。外国人と中国人双方の意見であるが、首謀者はロシア共産党指導者の指導を受けた国民党政府内に潜む共産主義活動家*1である。これらは外国人だけでなく中国人にとっても敵である。根絶やしにしないと中国の統一どころではない。◎

◎【パール・バックの偽善】
中国人を絶賛するパール・バックが書いていないものがある。あの時、南京では何が起こっていたか。中国兵は笑いながらイギリス領事をその庭先で撃ち殺した。無抵抗のアメリカ人も一人、同様になぶり殺しにした。アリス・ティスデイル・ホーバート夫人邸に逃げ込んだ50人の外国人に、雨あられと弾丸を浴びせた。幸い、この50人は軍艦からの援護射撃の下、上陸してきた部隊に無事救出された。こういうことを、パール・バックは一切書いていないのである。


タイで山田長政描いたタイ映画、出足好調

「ヤマダ・ザ・サムライ・オブ・アユタヤ」Yamada The Samurai of Ayothaya

17世紀前半にタイで活躍したとされる武将、山田長政を描いたタイ映画「ヤマダ・ザ・サムライ・オブ・アユタヤ」が2日に公開された。5日までの興行収入は400万バーツで、11月29日―12月5日の興行収入ランキングで5位に入った。

 「ヤマダ」は約1億バーツの製作費を投じ、3年がかりで製作された。主役の山田長政を演じるのはタイで活躍する日本人俳優の大関正義さん。K―1などで有名なキックボクシング選手のブアカーオさんも出演している。


山田 長政(やまだ ながまさ):通称は仁左衛門(にざえもん)

  天正18年頃~寛永7年、(15/9/0~1630)
山田長政は江戸時代前期にシャム(現在のタイ王国)の日本人町を中心に東南アジアで活躍した人物で、1590(天正18)年ごろ駿河国沼津(駿府馬場町の紺屋の津ノ国屋、現在の静岡市)で生まれたと言われていますが、出身地については駿府、伊勢、尾張、長崎の諸説があります。駿府説が通説となっているようで、駿府の浅間神社近くの馬場(ばばん)町に染工(紺屋)を職業とする山田九平次という人物がいて、実子がなかったので、伊勢の人で伊勢神宮の御師(下級の神官でお札を諸国へ配って歩く)だった九左衛門友昭という人を養子にしました。その九左衛門のもとへ、3才の長政を連れ子にして再婚してきたのが、駿河国安倍郡藁科村(現静岡市)の寺尾家出身の女性(長政の母)で、尾張へ嫁して長政をもうけ夫に死別後に長政を伴って実家へ帰っていたのが再婚したのでした。駿府で長政がどのような生活をしていたのかについては明らかでない部分も多いのですが、学問を馬場町近くの臨済宗の名刹「臨済寺」(今川家の菩提寺)で学び、浅間神社前の宮ヶ崎にあった関口八郎左衛門という人の町道場に通って武芸を修行したといわれています。その後、駿府を飛び出し沼津で沼津藩主・大久保治右衛門忠佐のお抱えの駕籠かきの仕事をしていましたが、それも辞めて駿府に舞い戻った長政が、海外へ出て行くことを決意した契機としては、駿府郊外の久能の海岸で、清水港の遊び人(ちんぴら)を数人殺傷してしまって追われる身となり、警吏の追及を恐れて国外へ逃亡したとする説もあります。

1607(慶長12)年に家康が大御所として駿府城に在城し、駿府が日本の政治・経済の中心地となり活気にあふれた 「日本の大航海時代」の頃に少年時代を過ごした長政は、時の貿易奨励策で海外へ進出する商人たちに刺激されました。1610(慶長15年)年(1612年説有)に駿府の商人の太田治郎右衛門と滝佐右衛門の仕立てた台湾行きの御朱印船 「富士丸」に乗り込み清水港を出帆しました。台南でシャム行きの便船を待ち、長崎の豪商の木屋弥三右衛門の船でタイ王国アユタヤの日本人町に上陸しました。その後に、津田又左右衛門が筆頭の日本人傭兵隊に加わり、頭角を著しアユタヤー郊外の日本人町の頭領となりました。

アユタヤ王朝のソンタム国王の信任を得て、第三位身分のオークヤー(あるいはプラヤー)・セーナーピムックという官位・欽賜名を授けられて、1630(寛永7)年に南タイのナコンシタマラート県のリゴールの王に任ぜられました。そして、バンコックを通ってタイランド湾に流れ込んでいるチャオプラヤー川に入る船から税を取る権利を得ました。その後、ソンタム王の死去による後継者争いに巻き込まれました。そのいきさつは、ソンタム王の死後、長政はソンタム王の遺言に従い、シーウォーラウォン(後のプラーサートトーン)と共同でチェーターティラートを王にたてましたが、チェーターティラートはシーウォーラウォンに不審を抱き排除しようとして失敗して、シーウォーラウォンに処刑されました。その後チェーターティラートの弟のアーティッタヤウォンが王としてたてられましたが、あまりに幼すぎるので、官吏らはそのころチャオプラヤー・カラーホームスリヤウォンに昇進していたシーウォーラウォンが王位に付くことを願いました。長政はこれに頑固に反対したために、宮廷内で反感を買いました。この時、当時アユタヤの貿易を独占していた日本人勢力と対立関係にあった華僑の勢力の圧力が宮廷内におよび、長政は六昆(ナコーンシータマラート、Ligor)の防衛を理由にシーウォーラウォンによって左遷されました。

1630(寛永7)年に隣国との争いが生じたときに足に受けた傷に毒を塗られて死亡したといわれています。それは長政が1630年にパタニ軍との戦闘中に脚を負傷して、傷口に毒入りの膏薬を塗られたことによるのでした。毒を塗られたのは 「カラーホームの密命による」とオランダの史料が記していると伝えられています。また、1630(寛永7)年にリゴール(南タイのナコンシタマラート)でリゴールの王(知事)となった長政が前リゴール王(知事)の弟オプラ・マリットによって毒殺されたとの説も有ります。その後、ナコーンシータマラートの王(知事)は息子のクン・セーナーピムックが引き継ぎましたが、内部対立があり同じ日本人傭兵によって殺され、長政の死と同じ年にプラーサートトーン(シーウォーラウォン)が「日本人は反乱の可能性がある」として、シャイフ・アフマドらが率いるアラビア人、タイ族、華僑の組織する兵によってアユタヤ日本人町は焼き打ちされて滅びました。

長政は1626(寛永3)年に故郷駿府の浅間神社に戦艦図を奉納しており、この戦艦図は焼失しましたがその写しは今も神社に伝えられています。1842(天保13)年の馬場町絵図には、「ここが津の国屋九左ヱ門の屋敷なり」 と記してあり、そこが山田長政の生家跡とされています。


りゴール(Ligor)はナコーンシータンマラートの主要都市で、アユタヤ王朝下ではマレー半島貿易でにぎわう一方、度々離反するマレー系諸王朝(パタニ王国など)に対する防衛都市として機能しました。山田長政の左遷先もナコーンシータンマラートであり、ここでパタニ軍と交戦した後に、死亡したと伝えられています。ナコーンシータンマラートはチャクリー王朝 5代目の国現王ラーマ5世(チュラーロンコーン、1853~在位1868~ 1910 )のチャクリー改革の後、周辺の地域と共に県(チャンワット)を形成して、県庁所在地となりました。

タイ王国には、アユタヤでの日本人町の発掘や記念碑建立、1983年以降のタイ国側の要請による日本人町復元整備計画などがあったようです。

7 件のコメント:

副長 さんのコメント...

静岡市の浅間神社の参道に、長政邸宅跡の碑があります。

Unknown さんのコメント...

昨年も公開されたんですが今回の物は日本人が主役でした、昨日観ましたが内容がイマイチで演技もイマイチなので客の入りも私を含めて観ていた者が6人しかおりませんでした。
大河ドラマできちっと作ってもらいたいものですね、龍馬伝より面白いかも知れませんよ、NHKがつくると駄目か(笑

副長 さんのコメント...

殆ど、タイでのロケになるから予算的に無理なんぢゃ?(笑。

Unknown さんのコメント...

そうでしょうね、でも今やっている「坂の上の雲」かなんかは、エリミーター美術館を借り上げたり、30億だとか60億かかってるらしいですよ。

副長 さんのコメント...

осударственный Эрмитаж ですか?

あれ借りてるんですか?

Unknown さんのコメント...

すいません間違えました、エルミタージュです、国民の視聴料ふんだんに使った作品に出来上がってます、これは如何なものかとお思いますが、払ってもいないのでなんとも言いようがないのですがね。

副長 さんのコメント...

まぁ、僕も払ってませんが(笑。