2010年10月4日月曜日

汎ヨーロッパ・ピクニック

【尖閣絡みの謀略】フジタ社員4名逮捕の深層


拡散を!!


水間政憲


● 石家荘で逮捕監禁されていたフジタ社員3名が解放され、帰国記者会見を取材したが疑惑だらけでした。


まず、解放されフジタ社員は4名だったことです。その中の1名は中国人だった。(記者会見場で、フジタが配布した文書には中国人社員となっている)


現地採用の中国人は、中国公安警察にコントロールされる立場になっています。それが一党独裁国家体制の自然な姿です。

中国に駐在しているマスメディアの支局で働いている現地採用中国人は、全員、中国公安警察に許可された者が働いています。

今回の石家荘で逮捕されたフジタ社員は、尖閣での領海侵犯追突事件が勃発した後に、中国がシナリオを描き実行した逮捕劇と理解すると分かりやすい。

中国に滞在している日本人で、解放軍管区周辺部をカメラをもってうろつく日本人など皆無でょう。

フジタの土屋執行役員は、小生の質問に「入札が公示されたらまた応札する」と、こたえていたが甘いのです。


今回のフジタ社員による応札準備の為の視察は、南京で運転テスト中の「化学兵器処理施設」のフジタが受注したプラントの「運搬・設置・建屋の建設」と同じ入札情報でなく、フジタの配布文書には「プラントメーカー対応業務が公示され」となっていた。

ところが、内閣府遺棄兵器処理担当室は、石家荘に関する入札情報はまだ一切公示していないと言っており、公示されたのは、神戸製鋼が南京で受注した「プラント設備」と同じものだった。

そもそも、化学兵器禁止条約には、「遺棄化学兵器処理事業」は入ってなかった。

実際には、中国が「化学兵器禁止条約」を批准することを条件に、中国が日本からお金を毟り取るために「遺棄兵器(引渡兵器)」の一項目を付け加えた事業なのです。

中国に残されている化学兵器を含む砲弾は、中国側の接収に応じて旧日本軍が武装解除して引き渡したものなのだ。本来、日本が処理する必要など一切ない事業なのです。

中国は、解放軍が所有している化学兵器を、同禁止条約を批准したことで、処理する義務があるが、設備をもっていません。


化学兵器処理プラント設備のノウハウは、日本にもなく神戸製鋼もヨーロッパのメーカーの協力でプラントを作ったものです。

当然、中国人民解放軍も化学兵器処理プラント設備のノウハウは、もっておりません。

これから導かれる事実は、中国は自ら処理する技術をもってないことで、日本の技術とプラント設備で処理する算段なのです。

そもそも中国が言い募る「遺棄化学兵器」(引渡兵器)の97~8%は、化学兵器禁止条約で処理の対象にしていない「しろ剤」(発煙筒)や「黄色薬」(通常弾含む)、「あか剤」(くしゃみ弾)、「みどり剤」(催涙弾)なのです。

そこで、一連の中国漁船追突事件以降の過程を検証すると、多数の中国漁船の中で、問題漁船だけが海上保安庁巡視船2隻に作為的に追突した自体が、仕掛けられたものと考えられる。

その過程で石家荘においてフジタ社員の逮捕拘留も、尖閣海域漁船追突事件への対抗策として急遽実行されたと考えるのが自然なのです。

フジタ社員は、細い道を入って行ったら進入禁止の看板があったので、車を止めて戻ろうとしたら解放軍関係の車両が後ろから来て動けなくなったと、説明していたが出来過ぎのシナリオで、フジタ社員は、中国人船長救出の「交渉の道具」として拘束されたのです。

その意味で、フジタ社員は、在中国日本人の中から選ばれたのでしょう。
フジタが、石家荘の解放軍管区内の化学兵器処理関連事業を、受注できると考えたことが甘いのです。内閣府遺棄化学兵器担当室でさえ、石家荘のどこにプラント設備を設置するか把握しておらず、まして旧日本軍の引渡兵器を保管していると中国側が言っていても、日本側はそれを見た者は誰もいないのです。

中国は、軍事大国としての責任として、解放軍が所有している化学兵器を、日本のプラント設備で処理するなどと口が裂けても認めないであろうが、それゆえに石家荘解放軍管区内のプラント設備関連工事は、日本側に入札させないであろう。


その現実を理解していないフジタは甘いのであり、今回、石家荘解放軍管区周辺部にノコノコ出かけて行ったフジタは、危機管理情報をもっていなかったのであり、中国に仕組まれた謀略にまんまと載せられたのが真相であろう。


日曜日、各局テレビ報道番組で、野党国会議員が、尖閣の領有権を主張していなかったことが問題だなどと、寝ぼけたことを言っていたが、小生が2004年11月に『SAPIO』誌に発表したリポート「中国の恥地図改竄史にみる『尖閣領有の大嘘』」で、解決できていたことを知らなかったことが問題なのです。

また、前原外務大臣が「1960年に中国で発行した地図に尖閣を日本領と表記してある」と、さかんに発言しているが、その地図の存在を明らかにしたのは同リポートなのです。

尖閣・竹島・北方領土問題は、日本人の国家観の喪失に根本的問題があります。

今回、唐突に中国とロシアが歴史を捏造した共同声明を出してまで、領土を強奪しようと嵩に掛かってきたのには、理由があります。

それは、本年8月、民主党政権は国内外に、「日本は内政干渉に屈して国家主権を放棄しました」と、中国とロシアが解釈できる「全閣僚並びに政務三役は、靖国神社を参拝しません」との声明を出しました。

国家主権を守るために散華した英霊を蔑ろにした、当然の帰結として中国とロシアが、一気呵成に襲いかかって来たのです。

この危機的状況で、日本人は真価が問われているのす。



 甘い、独自の情報で動くのは結構、経済活動をする上で其れは大事というよりも商売人なら少々の危険を犯してでも勝算があればやるでしょう、しかしながら危機管理が甘すぎるましてやこれだけの大騒ぎを犯したのだからフジタは即座に撤退すべきである、大企業や個人企業もそうだが、海外に頻繁に行く連中、又海外在住でそこで活動を行っている連中に有りがちなミス、自分は大丈夫だとか、うちの会社は大丈夫だとか、根拠の無き自信が多すぎる、日本のような法治国家ではないのである、、要するに欲が絡んでこのようになったということですから、國民の賛同は得られない勝手におやりなさいという事ですね、そのかわり日本人や日本国に迷惑のかかるような事は遣ってはいけませんよという事ですね。


汎ヨーロッパ・ピクニック

1980年代後半になると、ポーランドやハンガリーでは民主化への模索がはじめられた。しかし東ドイツは未だ保守的でドイツ社会主義統一党の国家評議会議長エーリッヒ・ホーネッカーは国家保安省(秘密警察)を用いて国民に対する締め付けを強くしていた。このような状況の中で1989年5月にハンガリーがオーストリアとの国境を開放する、というニュースが飛び込んでくると、多くの東ドイツ市民はハンガリー・オーストリアを経由して西ドイツに行けるのではないかと考え始めた。

当時の東ドイツでは、旅行は許可制で、当然西側への旅行は許可されなかったが、東側への旅行が許可される可能性は高かった。ハンガリーまでは秘密警察に睨まれることなく合法的に国境を越えられて、ハンガリーに辿り着けば何とかオーストリア経由で西ドイツに越境できるのではないかと考え、多くの人がハンガリーへの旅行許可書を持って、ハンガリーへ向かい、そのままハンガリー・オーストリア国境も越えて西ドイツに行こうと計画して実行に移した。

しかし、ハンガリー・オーストリア国境が開放されたと言っても、通行を許可されるのはハンガリーのパスポートを持った人達だけで、東ドイツ市民がこの通行を許可される可能性は殆ど無かった。このことは彼らがハンガリー・オーストリア国境まで行って初めて明らかになった事であった。結果として1989年8月初め頃にはハンガリー・オーストリア国境地帯には、越境を求める東ドイツ市民で溢れるようになった。

こうした状況の中、ハンガリーで民主化を求める民主フォーラムや他の民主化を求める勢力は、多少強引にでも彼らを越境させてしまおう、と考えるようになった。既に非共産党政治勢力の活動が認められていたハンガリーではこうした民主化を求める運動が活発になっていた。オーストリア側からは、かつてのオーストリア・ハンガリー帝国帝室のハプスブルク・ロートリンゲン家の当主であるオットー・フォン・ハプスブルクがこの運動を支援した。さらにハンガリーの内務省は、この動きを黙認するどころか、判らないような形で背中を押せるように努力した。

こうして1989年8月19日に、ハンガリー・オーストリア国境地帯に属するショプロンで汎ヨーロッパ・ピクニックが開かれた。ショプロンが選ばれたのはこの町がハンガリーから飛び抜けて、オーストリア領に食い込むような形になっており、3方をオーストリアに囲まれていたため、比較的オーストリアに脱出しやすいと考えられたためである。この集会に参加すれば国境を越えられるという情報は付近一帯に滞在していた東ドイツ市民にも内々に伝わり、およそ1000人の参加者が詰め掛けた。この集会は名目としては「ヨーロッパの将来を考える集会」であった。「民主フォーラム」の代表とオットー・フォン・ハプスブルクの代理人を名乗る人物の挨拶が終わるか、終わらないかの内に、参加者は続々と国境を越え始めた。内務省は予め国境のゲートの内、一つを開放しており、当地の国境警備隊には事前に、上層部から事態の黙認と武装の禁止を命じられていた。

しかも実際にその場に居た隊員たちは単にこの事態を見て見ぬ振りをするどころか、事後の新聞に掲載された写真やテレビ報道では、親と手を離して転んでしまった子供を抱き上げる警備兵もいた。こうして真夏の週末のピクニックは成功裏に幕を閉じた。

ピクニックが成功したと言うニュースは瞬く間に東ドイツ中に広がり、一層多くの東ドイツ市民がハンガリーやチェコスロバキアのオーストリア、西ドイツ国境地帯に詰め掛けた。両国政府とも東ドイツ政府との関係悪化を心配してピクニックの時の「お目こぼし」はさほどできなくなっていた。ブダペストやプラハの西ドイツ大使館、そしてこれらの運動に協力する施設では東ドイツからの脱出民で溢れ、さながら難民キャンプの様相を呈して来た。両国政府と西ドイツ政府は協議の結果、東ドイツ市民に西ドイツのパスポートを与え、西ドイツに出国させる手筈を整えた。更にハンガリーではその後東ドイツに配慮することを止めて、堂々と東ドイツ市民に国境を開放するようになった。東ドイツ政府は西ドイツ、ハンガリー政府に対して激しく抗議を行ったが後の祭りで、東から西への人の移動を止める力は東ドイツに残っていなかった。特にこれらの「難民」には教育水準が高い市民が多く含まれていたと言い、このまま「頭脳の流出」が続けば国家の崩壊も絵空事でないとも言われた。

秋になると、東ドイツ国内でもライプツィヒやベルリンなどで、旅行の自由化、民主化を求めるデモが頻発した。ホーネッカーに事態を収拾出来る力は無く、同年10月にホーネッカーは退陣に追い込まれ、ついには1989年11月9日のベルリンの壁崩壊に行き着く事になった。


20年立つのですね、これには関係しませんが当時ハンガリーの国境やチェコの国境や東ヨーロッパ全体、国境近くには売春婦がわんさかいました、暗い東ヨーロッパの旅其れを見るだけでも楽しくなったものです懐かしい。

0 件のコメント: