2010年2月10日水曜日

無道の国はお断りする

いまや日本はその無道の国の操り人形に馴れ果てている

 明治国家草創期の基本設計図を仕上げた井上毅

   その師 熊本県人 横井小南は
   思いを込める事が学問の眼目とする 
  政治の原理原則を定めようとした“富国論”“強兵論”“士道論”を唱える
   外交方針として
 “有道の国とは交わり無道の国は拒絶する”


幕末維新の開明思想家として知られる横井小楠

内坪井(現在の熊本市坪井)に生まれ、安政2(1855)年に沼山津に移り住んだ小楠は、家塾「四時軒」を開き、多くの門弟を養成しました。かの坂本龍馬(さかもとりょうま)や「五か条の御誓文」を起草した由利公正(ゆりきみまさ)、「教育勅語」の起草に尽力した元田永孚(もとだながざね)、「大日本帝国憲法」の草案をつくった井上毅(いのうえこわし)らもこの「四時軒」を訪れています。

横井小楠は熊本藩士ながら、越前・福井藩主の松平慶永(よしなが)、号春嶽(しゅんがく)に賓師(ひんし)として招かれてそのブレーンとなった開国論者だった。その小楠は、春嶽が幕政改革のために「政事総裁」職に就任する時(文久二年〈一八六二〉の七月)、 ――国是(こくぜ)七条 という七か条の綱領を献策している。その中で殊に注目されるのは、「公共の政」を行うこと、さらに、海軍力を強化すること、という二か条であろう。この公共の政(幕府と諸藩・朝廷との公論による政治)によって海軍力を強化することが、小楠に面識を得たことのある海舟の海軍建設の構想に結びついたと見られる。
ともあれ、海舟は後年に述懐している。「おれは、今迄に天下で恐ろしいものを二人見た。それは横井小楠と西郷南洲だ」と。西郷隆盛に比べうる人物として、かれは小楠を挙げているのである。
海舟の有能な門人だった坂本龍馬の事蹟にも、熊本に蟄居(ちっきょ)中の小楠を訪ねたことが伝えられている。

・実名「時存(ときあり)」 通称「平四郎」 号「小南」(楠正成の子、小南公を敬慕)
 「横井平四郎さん実学めさる。学に虚実があるものか」はやり歌あり。

人物の大きさから言えば、西郷・勝・吉田松蔭その他と比肩して決して
見劣りしないのに、今日まで派手にとりあげられなかったのは
①暗殺状のなかに、「天皇制を廃止せよ」との讒言があった。
②キリスト教を広めようとした。
というデマゴーグが流布されていたことによるが、今日学術的に反証が
なされたことにより、はじめて明治神宮(最右翼:政府)から声がかかった。

・幕末偉人のなかで、「神社」になってないのは横井小南だけ。まだ、
熊本県人は小南の偉大さを認識してないようだ。
居合いの達人 備前長船住景光短刀:100両購入 猟・魚とりも上手
1848 29歳 私塾「小南堂」開設 (現在の下通り駐車場)
 門下生:徳富一敬、竹崎茶堂、矢島直方
 1849 越前福井藩三寺三作 諸国漫遊:日本一の学者探しの命 
 小南に感銘、報告。学校について教えをこう「学校問答書」建白。
 吉田松蔭これに感動。長州藩にも推薦しようとした。
 1853  吉田松陰 来塾 宮部鼎蔵も。 塾生20数名・ 
 
45歳で24歳の小川ひさ子と結婚。2年後コレラ没。翌年、矢島つせ子
 結婚。これも20代。長男の時雄はのち同志社大学総長に。長女の
 みや子は海老名弾正(キリスト教伝道師・のちに同志社大学総長)夫人。
 47歳沼山津に転居「四時軒」と呼称。このころ攘夷論から開国論へ移る。
 1858(安政)越前藩主松平春嶽に賓師として招聘され「国是三論」を草して
 藩政改革に貢献した。また、春嶽が幕府政治総裁に就任するや、その
 ブレーンとして「国是七条」を建言するなど幕府の内政外交政策に影響を
 与えた。

徳富蘇峰と蘆花は横井小南の甥。蘇峰兄弟の母の妹が小南の妻
 つせ子。

蘇峰著書「小南先生は口から入った酒と口から出た言葉で人生を誤った」
 松平春獄「小南の悪いところは密事漏洩」(小南は秘密大嫌い)

当初 尊王攘夷論:肥後勤皇党:宮部鼎蔵、川上彦斎、轟木武兵衛
 後日 開国論を唱えるように
になって 仲間はずれ

明治維新後、新政府の22人の参与(大臣級)のなかでも、岩倉具視は
 格別に小南を頼りにしていた。 
 明治2年1月5日、太政官に出仕して退庁する途中肥後勤皇党数人に
 暗殺された。享年61歳。
 墓は京都南禅寺天授庵に。髪の毛は熊本へ。



1月13日朝(日本時間)に大規模地震が発生したハイチにおける 、復興支援のための国際平和協力業務に携わるべく、医療援助隊に 続いて当地へ派遣された国際救援隊(1次要員)の出国行事等の模 様をお送りします。 [平成22年2月6日 防衛省/羽田国際空港]

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