2009年11月28日土曜日

六.少年戦車兵


これは少年戦車兵の日記でも手記でもない。作戦に忙しいこの若武者達にはそんなものを書いてゐる余裕はまったくなかつた。戦車隊はマレー作戦では殆ど先陣を切ってばかりゐたし、その陣頭には十五名の少年戦車兵がゐたけれど、いずれも七十余日の征旅を寸刻の余裕もなく働きつずけた。彼らはスリムの激戦のさなかにお正月を迎へて一つずつ年を取つた。けれど十八歳から二十二歳の若さである。ここに揚げる一文は記者折に触れて書きとめておいた若武者たちの言葉を折つずり合わせたもので、語り手は 遠藤三郎(香川県大川郡石内村) 西村雅男(高知市田場町)藤本幸男(熊本県湯前町)一色峰男(愛媛県任生川町)藤井博(愛知県牛久保町)大前一郎兵衛(京都市左京区銀閣寺町)下和田巌(鹿児島県日置郡永吉村)の諸君

 僕らの部隊はいよいよ出征ときまつたらしいが、どうやら僕ら少年戦車兵だけは残される模様だ。そこでみんなが集まつて相談してみたところ、残されるくらゐなら死んだ方がましだといふことに意見が一致したので代表五名を選んで部隊長殿に嘆願してみた。

 部隊長殿は「軍隊は何事も命令だ。内地の原隊で訓練してゐることも立派な御奉公だから、なにぶんの命令があるまで待て」といはれた。それから僕らは毎晩戦争の話しをした。ところがO月O日夢に見ていた出征命令だ。ああ嬉しくて嬉しくてたまらない。上陸して初めて知つたのであるが、僕らの初陣の戦場は英米をやつつけるマレー戦線であつた。まつ黒のインド兵とまつ白な英豪兵と戦ふことが何かしら世界的舞壷のやうな気がしてたまらなく心が勇んでくる。

 最初の戦ひは英領マレー国境近くのジツトラであつたが僕ら十五名はお互いに手を握り合つて「しつかりやらうぜ」と励まし合つて、それらポケットに入れてあるお父さんやお母さんや姉さんの写真を調べてみた。

 僕ら十五名はみんな操縦手だつた。僕らが少しでも操縦にドジを踏めば戦争全体が滅茶苦茶になるのだと考えると今更ながら自分の重い責任を感じる。戦車に乗り込む前に目をつぶつて、もういちど原隊にをられる教官殿の訓練を思ひ出して見る。これでいくらか心が落着いた。やがて前進命令、しつかりと操縦桿を握つた。ああ何といふことだらう。僕らは何の考えもなしにただまつしぐらに進んでゐるのに、もう敵陣のまっただ中へはいりこんでゐるのだ。轟音のために敵の大砲も友軍の射撃も何も聞こえぬため状況がさっぱり分からないけど、僕らの戦車のすぐ傍らを黒人兵がフルスピードで通り過ぎていつたので、初めてここが敵陣の渦中と分かつたのだ。

 止まったり進んだり、ただ命令に従つて夢中になつてゐるうちに夜が来た。僕らはここで一旦停止することになつた。戦車から出ると今までは相當の激戦で敵は物凄い砲撃を戦車に加えて来たのだと言ふ。僕らはそんな激戦を知らずにゐたことを惜しいやうにも、また申譯ないやうにも思つた。しかし何しろ腹が空いた。そして無茶苦茶に眠い。マレー人がゴム林の中から手招きをするので行つてみると飯が炊いてあつた焼豚のご馳走もある。丁寧にお辞儀をしてからそれを鱈腹食べた。食べ終わると僕らは直にゴム林の中でそのままゴロリと眠つた。

 夜が明けたら隊長殿が「おい、みんなよく寝てゐたなあ、ゆうべは凄い敵の逆襲があつてこの浜はヒユンヒユンと砲弾が来たんだぜ。よつぽど起さうかと思つたけれど寝かしておいてやつたよ」といはれて僕らははずかしかつた。上陸の夜から眠つてゐないから疲れてゐたとはいへ申譯ないことだ。

 僕らはその後段々戦場へ鍬へられていつた。カンバルやスリムの戦争もすさまじかつたが僕らにいちばん思い出になるのはゲマスの戦争だ。僕らはシンガポール一番乗りをめざしてジュホール州攻撃の先陣を切つて凄いスピードで進んでいつた。

 一月十五日の夜、州境ゲマスの町の入り口にある長さ五十メートルの橋を戦車が渡つて、その後歩兵の一部の戦車部隊が渡りきつたとき電気仕掛けで橋は爆破されてしまつた。僕らはこの歩兵部隊とともに敵中に孤立しなければならなかつた。突然火の玉がバツと額に突き當るやうな感じがした。目がくらくらとなつて操縦幹が思わず手から離れようとした。例によつて履隊の喧しさの為に音こそしないけれど敵の砲撃は相當に激しく、火の玉はいくつもいくつもやって来た。戦友の森田章三君(鳥取県)が操縦してゐる第一車はそれでもどんどんと進んでいつたが、突然きりきりと方向を換へて隘路になつてゐる山肌にめり込んでしまつた。よく見ると各坐したまま第一車は盛に砲を射つてゐる。ところが続く第二車は第一車を乗り越へて更にぐんぐんと前へ出たが、これも各坐したらしく第一車、第二車が道路の上に寝てしまったので第三車が通りにくくなつた。

 すると第三車から垣川周八伍長(熊本県牛深町)が飛び出て悠々と誘導をやり始めた。戦車はこの道路両側にある敵の歩兵陣地へ向かつて体当りを食はせるために凄いスピードで前進することになつた。そのころ友軍の迂回部隊が敵の背後に廻つたので、さすがの砲撃も止んでしまつた。みんなで僕ら少年戦車兵最初の犠牲者森田章三君の墓を作ることになりゴムの木を削つた。どこを探しても墨がないので万年筆の中のインキを出して隊長殿から「陸軍軍曹森田章三の墓」と書いて貰つた、、、

 森田よ、僕らは二月九日戦車では困難といはれたシンガポール島の上陸に成功した。随分射たれたけれどシンガポール街道を驀進してブキテマ町魔の三叉路を真先に突破し、そして紀元節には誰よりも先にシンガポールの一角に突入した。森田よ僕らはシンガポールの攻略戦で決して少年戦車兵の名を辱しめるやうなことはしなかつたから安心してくれ。

0 件のコメント: